ヒツジ飼いの冒険
第7話 決断
旅するヒツジの一団。
そこにはヒツジの群れを率いている男も見えた。
表情はぼやけて見えないが、それは明らかにレオナルド本人だった。
夢なのにやたらとリアリティがあり、土埃の匂いまで感じていた。
「行かなくちゃ」
まだ眠そうな瞼をこすりながら呟き、レオナルドは起き上がった。
丸首のTシャツからVネックのTシャツへと着替え、ニット生地で伸びのあるショートパンツからハリのあるツイル生地のショートパンツへ履き替えた。
人によっては大きな違いを感じないかもしれないが、レオナルドにとっては十分な外出スタイルだった。
リンダとはロータリーに噴水のある駅の東口で待ち合わせた。
リンダにとって、2度と降りることはない駅だろう。
住人以外が利用するとは思えない静かでひと気のない駅。
「なんでこの」と言いかけた時には、レオナルドが先に歩きはじめ、リンダは質問を続けられないモヤモヤを抱えながら、1歩後ろを歩いた。
「子供の頃には噴水なんてなかった。その代わり、改札を入ってすぐのとこに池があった。池って言ってもこのあいだボートに乗ったような大きなのじゃなく、小さいの」
駅を拡張することはあって、小さくすることはそうそうないだろう。
今の駅の規模から考えても、構内に大きな池なんて作ることはできない。言われなくても小さな池だったことは、この駅をはじめて利用するリンダだって容易に想像することができた。
「隣の駅にあるデパートの屋上で縁日みたいなことをやってたときがあって、オレ、そこで金魚すくいをやったんだ。はじめてやった金魚すくいなのに、なんだかいっぱいとれちゃってさあ。屋台のおじさんがとれた金魚を持って帰るのは権利であり義務だって言って、おっきいビニール袋に入れてくれたんだ。電車に乗るまではうれしかったけど、家に近づくにつれてだんだん現実が見えてきて。うちに帰っても、水槽はない。金魚の世話の仕方だってよくわかんない。だから駅の池に放したんだ。その池にはもともと金魚がいっぱい入ってたから。それから毎日、駅へ金魚の様子を見に行って」
「三田くんは、この駅の近くで育ったんだあ」リンダのモヤモヤは少しだけ解消した。
「オレにとって、ここはスタートの地。だから、もう一度スタート地点を確認しておきたいと思ってさ」
十数年ぶりに歩く駅付近。子供の頃と景色はすっかり変わっていた。それは自分の背が伸びたからではない。
背が伸びたことは確かだが、建物は人の成長よりも大きかった。何を削ったのかわからないが、どういうわけか道幅も広くなり、公園付近にあった酒店はなくなっていた。
「公園にコンクリートでできた山があったんだけどさ、そこで遊ぶより酒屋の裏に積まれてた酒樽の山を登る方が楽しくってさ」
レオナルドは記憶にある風景と一致する場所を探して歩いた。
十数年ぶりなら、記憶と違う風景があっても不思議はない。
でも一昨日、リンダの街を歩いた時は、わずか数時間で風景が変わっていた。
これを不思議と呼ばず、なにを不思議と定義すればいい。
一昨日までの自分ならそう思った。
でもあの本を読んでから、すべての事象の意味が頭ではわかるようになった。
小さな公園の外周を1周し、また駅へと戻り、坂を登って反対の改札口まで歩き、そこから少し行った交差点の角に建つビルの一階にある寿司屋へ入った。
藍色の暖簾がかかる回転しない寿司屋。
ビルに掲げられた大きな看板に、一人前の値段が書いてあった。
皿が回転して運ばれてこなくても、心配ない価格帯だった。
それよりこの店は値段を改定するたびに、看板を付け替えるのだろうか。
自分の懐の心配よりも、看板のことが心配になるような店構え。
L字になったカウンターの一番奥の席にレオナルドは陣取ると、懐かしそうに店内を眺めまわした。
店の雰囲気はすっかり変わってしまっているが、木札に書かれた品書きは見覚えがあった。
いまでこそ好き嫌いのなくなったレオナルドだか、両親に連れてきてもらっていた当時は、干瓢巻きとタマゴと煮アナゴしか食べられなかった。
要するに子供の好きそうな甘いものだけだった。
「アナゴを2人前お願いできますか」レオナルドは板場に立つ数人の職人の中から、手ぬぐいを頭に巻いた男を選んで声をかけた。
「下駄で2人前ってことですか」。その職人は聞き返した。
「そうです。オレの分」その言葉にリンダはギョッとしたが、職人は何かを理解したかのように目を細めた。
「彼女は自分の分を別でオーダーします」とレオナルドはリンダへと注文を促した。
ひととおりお品書きに目を通したリンダは、特上寿司であっても、会社のそばでイタリアンランチを食べるのと同じくらいの値段であることを知った。
「じゃあ、アタシは普通の上寿司で」とオーダーしたあとすぐに「普通に1人前で」と続けた。
レオナルドとリンダは日本酒の熱燗で乾杯したが、寿司が届くまで無言だった。
先に出されたのは寿司下駄に乗った煮アナゴの寿司だった。
その後、リンダの注文した上寿司は、カウンター越しに一貫一貫届けられた。
「あっ美味しい」
「これも美味しい」
「今度のも美味しい」
届いた順に寿司を口に運んだリンダは少ない語彙で感嘆の声を上げるだけしかできない。
職人と向かい合う回転しない寿司屋は、一緒に来た相手と込み入った会話がしづらいと感じていた。
上寿司1人前を出し終わってしばらくたった頃、職人はカウンター越しにレオナルドへ話しかけた。
「お客さん、うちに来るのはじめてじゃないね」
「はい。もう十何年も前。子供の頃、親によく連れてきてもらってました」
「そうだな。確かに昔、アナゴばっか注文するガキがいたなあ。あの子か」
「覚えてるんですか」レオナルドは小さく身を乗り出して聞き返した。
「そういう子供がいたなってだけな」職人は膨らんだ小鼻を、右手の親指の付け根あたりでさすりながら言葉を返した。
「オレは覚えてますよ。あのときもあなたは白髪の毛を短く刈って坊主頭にしてましたよね」
結局、寿司屋では会話らしい会話を楽しめなかった。
何から話そう。話したいことがたくさんあったリンダは、話す順番を考えながら店を出たが、その計画をまる潰しにするように、最初に口火を切ったのはレオナルドだった。
「オレさ、行かなくちゃ」
今日はろくに会話もしてない。リンダの率直な感想だ。
それなのに、もう帰るというのか。店から駅の西口まで3分とかからない。
電車に乗ってしまったら、またたいした話もできない。
「ねえ、せっかく会ったのに、それはないんじゃない」リンダは大きな1歩を踏み出し、レオナルドの行く手を遮った。
「リンダが止めても、オレは行く。男には1人で旅をする時期が必要なんだよ」。レオナルドは両手を、リンダの両肩に乗せて言った。
リンダの頭の回転は、レオナルドの思考に追いついていけなかった。
「えっ。旅って、なんのこと・・・。行くって、旅のことなの・・・」
ヒツジ飼いの冒険(第8話)へ続く
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