ヒツジ飼いの冒険
第4話 記憶
あの古本屋は本当に映画のセットだったのだろうか。
店に入った時、わずかに開いていた引き戸を完全に閉めてしまったから、店を出るときには外側で猫が引き戸の開くのを、背筋を伸ばし静かに座って待っていた。
「ごめん、ごめん」レオナルドは謝りながら引き戸を開けると、猫は両足のあいだを縫うようにすり抜けていった。
そのシーンを誰かが目撃していたなら、猫らしい華麗なるフットワークにも思えただろうが、レオナルドは両足にわずかな接触を感じていた。
猫の行動を俯瞰していたレオナルドにとってそれは、わざと体当たりしているようにも思えた。
古本屋が映画のセットだとすれば、猫のあの行動は芝居か、それともなんらかの意味があったことなのか。
古本屋を出て、池へと向かい、30分ほどボートに乗り、また再び駅前商店街に戻ってくるまで2時間と経っていないはずだ。
あれだけのセットが2時間で跡形もなく片付けられるのものなのだろうか。
本人に自覚はないが、レオナルドの記憶力は病的なほどだと感じている者は多い。
レオナルドは円周率の暗唱を止められるまで続けることができる。しかしそれは誰にでもできることだと思っているので、自分は記憶力に優れているなんて思ったこともない。
自分にできることは、ほかの人にできる。
ほかの人ができることは、自分にもできると思うようにしている。
しかしリンダが古本屋なんてないと言った場所に、本当に古本屋がなかった。
数時間前に見たものが過去から、そして現在も存在していない。
これをどう解釈すればいいのだろうか。
リンダと別れ、家に帰ってからもずっと考えていた。
駅前には、一階にコンビニエンスストアが入っている白いタイル張りのビル。
通りを挟んだ反対側はベージュの2階建て。その隣はコンビニのビルとは違った形の白いタイル張りの建物。
コンビニのタイルが横長に対して、こっちは正方形に近い。
目を閉じれば、駅前通りの終わりまで建物の外観を言える。
途中にあった6枚並んだガラスの引き戸、そこが古本屋の位置だ。
左から2番目の引き戸が左側に10センチほどずれ、猫が出入りする道を作っている。
映像に残してあるかのように、しっかりと記憶に残っている。
思い出そうとすれば、古本屋に並んだ書物のタイトルだっていくつかは言える。
なによりも古本屋が存在していた証拠に、買った本がある。
家に帰るなり、手も洗わずに自室へ閉じこもったレオナルドは机の上に置いた本を横目で確認した。
考えてみれば、本を買ってからまだ一度も開いていなかった。
帰りの電車の中で読もうと買ったのに、古本屋の存在がなかったことで自分の記憶力が急に不安になり、家にたどり着けないのではないかと思い読書どころではなくなってしまっていた。
行きとは逆に流れる車窓からの風景を見ながら、「あれも見覚えがある、これも見覚えがある、次は・・・」。
まるで精密機械の製品チェックをするように、丁寧にディテールを確認した。
家にはきちんと戻れたが、頭も使いすぎた。
記憶にある古本屋が消えていたばかりに、ひとつあることはふたつめもあるのではないか、それが我が家なのではないかと、不安の波が絶え間なく押し寄せてきた。
家に帰り、服を脱ぎ捨てると、ベッドで横たわり目をきつく閉じた。
眼球の奥が痛くなるほど風景を眺め、記憶と重ね、不一致がないかを確かめた。
帰路で視力も神経もすり減らした。
横になったまま机に目をやると、そのライン状には脱皮したように服が脱ぎ捨ててある。
部屋に入ったらすぐに本を置き、その後に服を脱ぎ、ベッドで横になる。
単純な行動だ。
レオナルドは自分のしたことを鼻で笑った。
横になったまま本に手を伸ばしたが机までの距離はずいぶんあった。
「本よ、来い」
念じてみるが、本はピクリとも動かなかった。
「手よ、伸びろ」
方針を変えてみるが、これも叶わなかった。
当然だ。魔法が使えるわけでもない。
左肘をついて体を起こして立ち上がると、めまいを覚えた。
右手で目と目のあいだを強く押さえると、目をつむったままゆっくりと数歩前進し、左手で本を探し出した。
レオナルドは右利き。
左手を出すときは、何らかの理由があるはずだが、今がまさにそのときだった。
馴染みのない率先した左手づかい。
地中に埋まった金属を探し当てる金属探知機のように、目をつむっていても本の場所がピタリとわかった。
左手は何かに接触することもなく、磁石に吸い寄せられるように本を引き当てたのだ。
その感触があまりに不思議だったので、右手を目頭から離した。
本を右手に持ち替え、左手で表紙をめくった。
表紙裏には、二折りにされた別紙が張り付いていた。
別紙を気にすることなく、パラパラと音を立ててめくった。
紙面は黄色く変色し、青インクで描かれた図版のページが続いた。
そして最後のページにもまた、紙が挟んであった。
ヒツジ飼いの冒険(第5話)へ続く
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